Last Updated 2020.12.29
イザベラ・バードの足跡を辿るブルベBRM429 300km
ブルベの世界ではゴールデンウィークのような大型連休に一気にSRシリーズのブルベ(200km・300km・400km・600km)を開催してしまうことをヘブンウィークというそうで、毎年日本国内のどこかの主催者が開催しているようです。
今年2017年はAJ神奈川が4月29日からヘブンウィーク・イザベラ・バードと称して、SRシリーズのブルベを開催することを発表しています。
イザベラ・バードとは?
イザベラ・バードはイギリス生まれの女性旅行家で19世紀にアメリカ・カナダを始め、ハワイを皮切りにクルディスタン・ペルシア・朝鮮半島・日本・中国と世界各地を旅行した方です。
1880年に刊行された日本の旅行記「Unbeaten Tracks in Japan」は「日本奥地紀行」という書籍名で和訳されました。この旅行記は明治時代初期の会津地方の様子や東北地方の人々の生活を知る上で貴重な文献となっています。
イザベラ・バードは1878年の6月から9月にかけて東北地方と北海道を旅行し、詳細な記録を残しました。
イザベラ・バードブルベのルート
AJ神奈川が開催するヘブンウィークのイザベラ・バードブルベは東北地方を中心にぐるっと一周するコース設計になっています。
イザベラ・バードの足跡をたどると国道を主に通ることになり交通量が多い幹線道路中心のコースになってしまうため、正確なコースをたどる事よりも興味深い描写のある場所を中心にピックアップして訪れることができるようになっています。
BRM429神奈川 300km イザベラ
BRM429神奈川 300km イザベラ:RIDE WITH GPSサイト
ヘブンウィーク初日は東北新幹線の新白河駅出発から始まります。
会津若松市を北上して、喜多方市を経由福島県をひたすら北上して山形県の米沢市、そしてゴールは山形県の金山町までの301kmという行程になっています。
イザベラ・バードの足跡としてたどる地域については、米沢盆地と山形盆地を経由するコース設計になっています。明治期の戊辰戦争終結後、まだ10年しか経っていない時に会津地方の荒廃ぶりを伝えていることに注目しコースにとりいれたようです。
会津区間
田島―大内宿―高田―坂下田島
私達は田島で馬を替えた。日本の町としてはかなり趣がある。下駄や焼き物、漆器・かごを製造し移出しているが、焼き物、漆器・かごはいずれも洗練されているものではなかった。
様々な大きさの田が続くなかを進んだ私たちは、荒海川 (現在の大川) という大きな川があるところにやってきた。田の畔には大豆がずっと植えられていた。ここに出るまで私達は二日間に渡ってその支流に沿ってとぼとぼと進んできたのである。汚い身なりをして仕事にいそしむ人々であふれる、これまた汚い村々を通り抜けたのち、この川を平底船で渡った。この川の両岸には高い杭がしっかりと打ち込まれ、数本の藤の蔓を編んで作った太い綱が結わえてあった。一人の男が両手でこの綱をたぐり、もう一人が船尾で竿を操り、あとは早い流れに委ねるのである。この後にも私たちはこのようにしていくつもの川を渡った。どの渡し場にも、有料の橋と同じように料金を書いた立札があり、一人の男が小屋に座って、金を受け取るようになっていた。
大内宿(オオウチジュク)
この地方は実に実に美しかった。これまでは連日、頂まで森に覆われた尖った山々が連なる中をたどり、山王峠のいただきからは夕焼けで黄金色に霞み、この世とも思えないほど美しい山群を眺めたのとは異なり、もっとひろびろとしたもっとも素敵な景色だった。私は大内という村にある養蚕場・郵便局・内陸通運会社継立所を兼ねる家で泊まった。大名が泊まったところでもあった。(本陣)この村は周りを山で美しく囲まれた谷間にあった。翌日は早朝に出発をし、噴火口のような凹地にある大宅沼という小さな美しい湖の畔を通ったのち、市川峠(市野峠)に至る長々と続く大変な坂道を登った。私達は本街道と呼ばれている道をそれ、まったくひどい山道に入った。
注;内陸通運会社は現在の日本通運株式会社。
市野(イチノ)峠からの景色
市川峠(市野峠)の頂はほとんどの峠と同様、狭い尾根になっており、これを越えると一挙に急な下りとなり、ものすごい峡谷に入った。私たちはここを一マイル(1.6km)ほど下って行ったが、道の傍らを流れる川 (藤川川)が雷のように音を轟かせ、何を話してもその声をかき消す。眼下には木立の多い平野が藍色の陰に包まれてうねるように広がるのが見え、その先には高い峰々には雪が白くかぶっていた。まことにすばらしい眺めであった。この下り道の終わりの方で私を乗せた雌馬は反抗し、手に負えない早駆けで市川の集落に突入した。ここは美しい場所にある崖っぷちの村で、背後の崖から形のよい滝が落下し、その飛沫のために集落全体が湿り気を帯びていた。そして木々にも道端にも緑藻が生え一面の緑だった。
ここの内国通運会社継立(ツギタテ)所は女性がやっていた。女たちは宿屋や店屋を営み、耕作も男たちに伍してして行っていた。どの村にも男女別住民数や牛馬の頭数が掲示されており、それでこれまでのところがすべてそうだったように、男の数の方がずっと多かった。
高田
道が杉並木になり、部分的に金箔を施した二つの立派な寺院が現れたので、かなり重要な町に近つきつつあることがわかった。高田(現美郷(ミサト)町)は事実そのような町だった。 生糸・縄・や人参の取引がかなり盛んな大きな町で、県(福島県)の高官の一人の地元である。通りは一マイル(1.6km)あり、全ての家は店屋だった。だが全般にうらぶれ、わびしい感じだった。よそ者が殆ど訪れない地方では、町はずれまで来ると最初に出会った人がくるりと踵を返し、「外国人!」という意味の日本語 「異人」を叫びながら通りを駆け戻って行くのだ。目が見える者も見えない者も、老いも若きも、着物を着た者も裸の者も、すべてがすぐに集まって来たし、宿屋に着いたら着いたで、ものすごい数の群集が集まってきた。そのため宿の主人は中庭にあるきれいな部屋「離れ座敷」に案内してくれた。ところが大人たちは屋根に上り、子供たちは庭の端の柵に上がって庭を見下した。するとその重みで柵が壊れてしまったために、すべての者がどっと押し寄せてきた。それで、私はやむなく障子を閉めたが押しかけて来た野次馬が外にいると思うと、休息している間もずっと心は休まらず疲れを覚えた。
注:うらさびれていたのは、九年前の戊辰戦争でここが戦場になり、町全体が焼失したため、戦災からの回復が十分でなかったことを窺わせます。
坂下(バンゲ)
坂下ではマラリアが流行っていた。あまりにもマラリア熱が多発するので、県が追加の医療援助を送ってきていたほどだった。しかも前方の山地までは一里「四キロ」しかなかったので、このまま進むのがよいと思われた。しかし、夜10時までは一頭の馬さえ手に入らないということだったし、道は道で、これまで通ってきたどの道にもましてひどかった。また痛みもつかれもいっそうひどくなってきた。そのため、ここ「坂下」に留まるほかなかった。うんざりする一時間だったが、この間に内陸通運会社継立所の五人の使いが宿を探してくれていた。その結果、暗くなってからすっかり時間がたってはいたが、宿が見つかった。古くてだだっ広い超満員の宿屋だった。私の泊まった部屋の大部分が池の淀んだ水面の上に高床式になって建っていた。そのため、おびただしい蚊がおり、空が黒くなるほどだった。熱病「マラリア熱」に罹りそうな惨めな一夜を過ごした後、朝早く起き出発できることになってほっとした。
米沢区間
米沢盆地
とても暑いものの良く晴れた夏の日だった。雪を被る会津の峰々も、太陽の光にきらきら輝いているので、涼しげな感じは殆どしなかった。南には繁栄する米沢の町があり、北には来訪者の多い温泉場である赤湯を擁する米沢平野「盆地」は、まさしくエデンの園である。鍬で耕したというより鉛筆で描いたように美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、キュウリ、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。晴れやかにして豊穣な大地であり、アジアのアルカディア(桃源郷)である・・・・そしてその豊かな土地すべてが耕作する人々の所有に帰している・・・・人々は抑圧とも無縁である。アジア的圧制の下では珍しい美観である。
赤湯
赤湯は硫黄泉の温泉町である。できればここで泊まりたかった。ここはこれまでに経験したうちでもっとも騒々しいところの一つだった。四つの道が交わる場所がもっとも人が多く、ここの複数の浴場[外湯]があり、いずれも混浴の人であふれ、大声が響き渡っていた。そして入った宿屋はこのすぐそばに位置し、40室ほどもあった。ところがリューマチを患う客が畳の上で横になった部屋や、三味線がかきならされたり、琴がキーキーと爪弾かれる部屋でほとんど塞がっており、その騒音にはとても我慢できなかった。そのため私は水田だらけで面白みに欠ける谷底平野と低い山並みをぬって続く立派な新しい道を十マイル(16km)進み、ここ[上山(カミノヤマ)]にやってきた。この山並みを抜けるとその先に、もっと高くて砂利が目立つ山で囲まれた小さな平野[盆地]が現れた。そして、そのような山の斜面という素晴らしい所に、人口三千人以上を有する温泉場上山があった。
新庄
その素晴らしい道をさらに三日に渡って旅し、60マイル(97km)近くを進んだ。山形県は非常に繁栄し、進歩的であり、前途有望という印象を受ける。上山を出てすぐに入った山形平野[盆地]は人口が多く、耕作が行き届き、幅の広い道の交通量は大変多く、豊かで文明開化しているように見えた。道路は、漢字を染め抜いた鈍い赤色の着物を着た囚人を使って改良が進められているが、彼らはわが国の仮出獄者に当たる。土建屋や農民に雇われ賃金を得るために働いており、囚人服をいつも着ていなければならないこと以外には何の制限も受けていない。楯岡[現村山市]からの翌日(7月16日)の旅ではこれまでと同じ立派な道[奥州街道]をそのまま進んだ。途中、連続的に続く農村や、人口がそれぞれ千五百人、二千人を数える土生田[トチウダ]や尾花沢その他の町も良く見かけた。この二つの町からは、鳥海山の素晴らしい姿が眺められた。丸い頂きには雪がかぶっていた。標高八千フィート(2400m)あるとされるが、かなり平坦な地方からは予測のつかない形で聳えているのと、同時に湯殿山の広々とした雪原も見え、しかもその下には本当に絵を見るように美しい山並みが横たわっているので、これほど壮大な眺めは日本にないのではないかと思っているほどだ。
尾花沢を過ぎると、最上川の支流の一つによって灌漑されている河谷を通り、それにかかる美しい木橋を渡った後、峠道を上がっていった。峠 [猿羽峠]からの眺めは絶景だ・・・・長い下り坂は立派な並木道をなして新庄に至った。水田の広がる平野に位置するこの町は、人口は五千人以上を数えるがうら寂れた町だった。
金山(カネヤマ)
今日は気温が高く、空はどんよりと暗かった。立派な道は終わってしまい、以前の大変な旅がまた始まった。今朝新庄を出発した私達は、勾配のきつい台地を越え、とても美しい、風変りな盆地「金山盆地」にはいった。いくつもの円錐形の小山が半円を描くように取り囲んでいる上に、その頂をこれまた円錐形の杉の木が覆い、しかも、一見したところは北方への行く手を完全に遮っているように見えるのでいっそう目立った。そのような低い山並みの麓に金山の集落は夢に誘われるような感じで広がっていた。ここについたのはまだ早く真昼だったが、ここで一日、二日、滞在することにした。内国通運会社継立所にある私の部屋が気持ちよく快適な上に、責任者がとても礼儀正しく、しかも、これから先には非常に大変な地域が横たわっているし、伊藤が一羽の鶏を手に入れてくれたからである。日光を出て以来,初めてのことだった。
「完訳日本奥地紀行」1、2 金坂来清則訳注、東洋文庫 平凡社刊より引用
参考:AJ神奈川イザベラ・バード特設ページより
AJ神奈川 BRM429神奈川300km イザベラについてはこちら
ヘブンウィーク初日から福島県の山岳を越えるハードなコースですが前半の登りを越えることができれば下り基調の平坦路で走ることができるコースとなっています。
喜多方市を通るので途中の夕飯は喜多方ラーメンがおすすめでしょうか。
13:00スタートの20時間制限ですので、後半はオーバーナイトランになります。
山形地方走行中は夜半から朝方になりますね。
装備としてはヘッドライト2灯以上は準備して十分な点灯時間を確保した装備が必要になりそうです。
AJ神奈川ではイザベラ・バードブルベ参加者のためにゴール地点付近のホテルも手配してくれるそうですので申込みの際には一緒にホテルの予約もお願いすると良いと思います。